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ヨシフ スターリン 英語

F-86 Sabre vs MiG-15: Korea 1950–53. スターリン・ブハーリン著作集 第1巻, ロシアに於ける階級闘争と革命 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編 スターリン・ブハーリン著作集刊行会, 1929, 共産主義序説 レーニン共著 高山洋吉訳. 合同出版, 1968. 白揚社, 1929. 大粛清(だいしゅくせい、露: Большой террор )とは、ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代にソビエト連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等で実行した大規模な政治弾圧 … 国民文庫, ソ同盟共産党大会政治報告. 白揚社, 1929. 国民文庫, レーニン=スターリン青年論 自由ドイツ青年団中央委員会編 松本滋訳 1955. ヨシフ・スターリン 生涯 生い立ち父ヴィッサリオンと母ケテワンヨシフ・スターリンは1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日)[14]、グルジア語名イオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシ … 白揚社, 1930. みなさんはスターリンと聞いてどんなイメージが浮かびますか?ヒトラーや毛沢東のような独裁者のイメージが思い浮かぶでしょうが、いくつかの逸話や名言も残っています。ここではそんなスターリンという人物を掘り下げ、彼の残した名言、その背景や思想・哲学などを紹介します。 青木文庫. スターリンの粛清で有能な医師がいなくなっていた( 医師団陰謀事件 (英語版) を参照)中、経験不足の若手や引退した者までかき集めた医師たちと看護師が、スターリンを診察した。「スターリンは脳出血により右半身麻痺の状態。 “旧ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンのひ孫、オーケストラと共にコンサートを行う 国際ニュース”, http://www.afpbb.com/article/entertainment/music/2243735/1715927, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ヨシフ・スターリン&oldid=80890474. Red Devils over the Yalu: A Chronicle of Soviet Aerial Operations in the Korean War 1950–53. (Iosif Vissarionovič Stalin ヨシフ=ビッサリオノビチ━) ソ連の政治家。本名、ジュガシビリ。グルジア出身。一八九八年ロシア社会民主労働党に入党。ロシア革命期には中心人物のひとりとして活躍した。一九二四年レーニンの死後、一国社会主義理論を唱え、トロツキー派を排して次第に独裁の傾向を強め、三六年には世界最初の社会主義憲法(スターリン憲法)を制定、四一年人民委員会議長(首相)となった。第二次世界大戦ではイギリス・アメリカとともに反ファシズム統一戦線を結成、ソ連の国際的地位を高めたが、死後、一九五六年の第二〇回ソ連共産党大会で個人崇拝的・専制的傾向、および政策面における誤りが指摘され、以後批判的傾向が強まった。(, ソルジェニーツィン「イワン・デニーソヴィチの一日」 「絶望」すら贅沢な収容所で 人文書院・井上裕美さん, 冨原眞弓さん「ミンネのかけら ムーミン谷へとつづく道」インタビュー 自分にうそつかず考える, Иосиф Виссарионович Сталин/Iosif Vissarionovich Stalin. 新人物往来社, 1971. ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語: Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年12月18日(ユリウス暦 12月6日) – 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人(職業軍人ではない)。レーニンの死後、29年間に渡り同国の最高指導者の地位にあった。一般に広く知られている「スターリン」という姓は「鋼鉄の(人)」 を意味する筆名であり、本姓はジュガシヴィリ(ロシア語: Джугашви́ли、グルジア語: ჯუღაშვილი)である。 白揚社, 1929.6. Knopf. Encyclopedia of Useless Information.Naperville, Illinous:Sourcebooks, Inc. 2007. 98, No. スターリン・ブハーリン著作集 第16卷, 社會主義建設の爲の鬪爭 ブハーリン 佐野學,西雅雄 編輯. 「マルクス主義の旗の下に」文庫, 世界資本主義の現段階 ブハーリン共著 佐野学,西雅雄共編. スターリンとスターリン主義 ロイ・メドヴェーデフ 石堂清倫訳. (pg 195, Carell, P. (1964), しかしこの時期に赤軍はスターリングラード前面で大規模な戦術的後退を実施しており、同指令と明らかに矛盾する。主眼は. 3, July 1948. Getty, Rittersporn, Zemskov. 「スターリン」は英語でどう表現する?【単語】Stalin...【例文】STIRLING ENGINE...【その他の表現】de‐Stalinization... - 1000万語以上収録!英訳・英文・英単語の使い分けならWeblio英和・和英辞書 五月書房, 1953. ヨシフ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin) 職業:政治家 誕生:1878年12月18日 死没:1953年3月5日 出身:ロシア帝国 ソビエト連邦の第2代最高指導者.1878年、ロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリで誕生する。 720 pages, The scale of Stalin's purging of Red Army officers was exceptional—90% of all generals and 80% of all colonels were killed.This included three out of five Marshals, 13 out of 15 Army commanders, 57 of 85 Corps commanders, 110 of 195 divisional commanders and 220 of 406 brigade commanders as well as all commanders of military districts. Robert Service. 日ソ親善協会, 1952. 1942年8月15日、第二回モスクワ会談でスターリンとチャーチルが会談した。スターリンは「神のご加護がありますように」と言い、チャーチルは「もちろん、神は我々の方についていますとも」と頷いた。するとスターリンは「当然ながら、悪魔は私の方についていますから。我々が力をあわせれば、共通の敵を打ち倒せるでしょう」と笑った[314]。チャーチルの演説を引用したのである。, 軍隊の最高司令官となったスターリンは、さらに冷酷無比な存在として恐れられた。スターリンとの電話の際、将軍たちはたとえスターリンが目の前にいなくても誰もが直立不動、「気をつけ」の姿勢になったとされる。独ソ戦では、敵前逃亡兵は銃殺し、戦車で轢き殺し、あるいは懲罰大隊に入れ地雷原を歩かせる酷薄な命令を出している。さらに、逃亡兵の家族はシベリア送りにされた。帝政時代に兵士を自ら看護したロマノフ家皇女のオリガ、タチアナとは正反対で、自国の兵士を駒としか見ていなかった[要出典]。, また、一度でも敵の捕虜になっていた兵士をスターリンは「スパイの可能性がある」として決して信用せず、帰還しても彼らは強制収容所へ送られた。晩年の猜疑心が強かった時期には、はるか以前の第一次世界大戦時に捕虜になった者を処刑するほど疑い深かった。独ソ戦中、ドイツ軍はロシア人の捕虜に対して過酷な待遇をしたが、スターリンは自国民の捕虜に対する赤十字の調査も拒否し続け、挙句の果てにはロシア人の捕虜が収容された収容所を爆撃させている。爆撃機からばら撒かれたビラには「祖国を裏切った者たちへ」と書いてあった。, 身近な部下には配慮を示した。通訳のベレズホフが仕上げた電文を見て気に入らないと「君は何を聞いていたのだ!」と怒った。しかしただ突き放すのではなく、重要な部分を口述して修正させた[315]。, スターリンの権力は絶大であり、他人に対して残忍に振る舞うことも平気であった。スターリンに対しては、誰一人として自分の意思を表明できない状態が生まれた。スターリンの下に友人として招かれた人間がスターリンと一緒に座っていると、そのあとにどこに連れて行かれるのか、すなわち自宅に帰れるのか、投獄されるのか、見当もつかない、ということがあったという。「人民の敵」と見なされた共産党のある幹部は、自分がいかなる陰謀にも犯罪にも加担したことはないが、取調官からひたすら拷問を受け続けた。その幹部は、党の正しさを信じつつ死んでゆくつもりだ、と言い残し、2日後に銃殺された[要出典]。, スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。, スターリンは息子のヤーコフに対し厳しく接したため、ヤーコフは拳銃自殺を試みたが失敗した。それを知ったスターリンは「やつは拳銃を真っ直ぐに撃つことすらできない」と言った。一方で、独ソ開戦後に長男のヤーコフが砲兵中尉として出征した際には「祖国の為に貢献して来い」と直接激励している。後日彼がドイツ軍の捕虜になったとき、スターリングラード攻防戦での戦いで降伏したドイツの陸軍元帥フリードリヒ・パウルスと、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「中尉と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね」「ナチスに寝返った息子などいない」と返答して申し込みを拒絶。「私の息子ヤーコフの命はあなたの手中にある。あなたが捕虜数百万人全員を解放するか、あるいは私の息子は彼らと運命をともにするだろう」と述べ、人質交換には一切応じなかった[316][317]。実質的に自分の父親に見捨てられる形となったヤーコフはこの事実を宣伝放送で聞いて衝撃を受け、ひどく落胆したと伝えられている。それから暫くして、ヤーコフは自身が収容されたザクセンハウゼン強制収容所内で死亡した。死因や経緯については不明瞭な部分が多く、鉄条網に向かって射殺されたとも[318]、収容所内の電気柵に突進して自ら命を絶ったとも伝えられている[319]。一説として、ヤーコフは収容所で他の捕虜と行進させられていたとき、突然看守の制止を振り切り鉄条網に突進し自身を「撃て!」と叫び、射殺されたという逸話が知られている。後に部下から息子の最期を聞いたスターリンは、塞ぎ込んだまま食事に手をつけなかったという。, 2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリー・スターリンと娘のスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは1932年に亡くなり、公式には「虫垂炎による病死」と発表された。彼女はスターリンとの口論の後に遺書を残して拳銃自殺を遂げた。娘のスヴェトラーナによれば、その遺書は「一部は個人的、一部は政治的」なものだったという[320]。テレビ局のA&Eによると、一部のロシア人はスターリン自身が夕食の席で起こった口論の後にナジェージダを殺害したと信じている。歴史家は、最終的に彼女の死が「スターリンの現実との繋がりを断ち切った」と主張している[321]。, 次男のワシーリーも異母兄ヤーコフ同様にスターリンから冷遇されたが、要領の良さと周囲が気遣ったこともあって空軍中将まで昇進した。しかし、一パイロットとしては26回の出撃で撃墜2機・協同撃墜3機と少ないながら戦果も挙げたものの、高級将校としては能力も経験も不足していた。ワシーリー自身が責任者を務めた空軍記念日でのモスクワ軍管区の空軍部隊による観閲飛行の際、父であるスターリンに見栄を張りたいと考えてか、悪天候の中にも関わらず強引にB-29のコピーであるTu-4爆撃機を飛行隊に参加させ、結果として1機のTu-4が墜落事故を起こした。観閲飛行終了後にスターリンの別荘で行われた会合にも参加しなかった事で、度重なる失態に愛想を尽かした父スターリンに要職からは解任された。更にスターリン死後に彼の庇護者であったベリヤが政治闘争に敗れて処刑された事と、新たに台頭したニキータ・フルシチョフがスターリン派に対する粛清を進めた事に伴い、ワシーリーの立場は益々悪化、失脚し軍籍も剥奪された。のちに、略式裁判で懲役8年が確定された事で身を持ち崩した。1960年1月11日、ワシーリーは1年程早く刑期を終えて釈放された。釈放時には彼を取り巻く政治情勢は軟化しつつあり、元将官としてモスクワ市内の住居と年300ルーブルの恩給が支払われた。また空軍中将時代の軍服や勲章の着用も許可されたが、極度の酒好きがたたり、1962年にアルコール依存症で死んだ。, 娘のスヴェトラーナは可愛がられたこともあり、スターリンの自宅で行われたチャーチルとの私的な会談にも同席した[322]。だが彼女にしても、最初の恋人を「イギリスのスパイ」とみなされてシベリアに追放されている。のちにほかの男性との間に子供をもうけた際には祝福の手紙を貰ったが、結局彼女はソ連を捨てて1967年にアメリカに亡命。彼女は亡命先のアメリカで回顧録を出版し、その中で「父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった」と述べている。, スターリンは3人目の妻としてラーザリ・カガノーヴィチの姉妹であるローザ・カガノーヴィチと結婚したと見られている[323]。シベリアに追放されていた時期にスターリンは不倫関係にあった女性との間に非嫡出子のコンスタンティン・クザコフをもうけたとされる。2001年3月、ロシアの民放テレビ局「NTV」は、ノヴォクズネツクに住む、それまで知られていなかったスターリンの孫ユーリー・ダヴィドフにインタビューを試みた。彼は、父親が自分たちの血統について話したと述べたが、スターリンへの個人崇拝に反する運動であるので黙っているとも話した。, スターリンはほかに愛人も作ったが、彼女らがスターリンの女性関係の派手さや残忍さを見かねて批判すると、彼女らはいつの間にか姿を消したり、不審な死を遂げたという。, レーニンは自身の晩年にスターリンと激しく対立している。とくにグルジア問題をめぐってスターリンの「大ロシア主義」を批判、スターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。しかし、スターリンの独裁政治はレーニンの独裁政治と類似点が見られるという指摘が多くある。例えばレーニンは反革命派を「害虫」と呼んで弾圧し、さらに農民から食料を強制徴発し飢餓による殺戮、帝政派を根絶させるためにクラークやコサックへの大量虐殺を行ったが、スターリンはこれらの特徴を引き継いだ。スターリンは大粛清では赤軍の将校を一掃し、さらにはウクライナにおけるホロドモールによって数多くの死者を出すなど、徹底した恐怖政治を敷いた。さらに秘密警察による罪状のでっち上げや強制収容所への収容も共通している。ゴルバチョフはスターリンだけでなくその元凶のレーニンも批判した。, スターリンは元々人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちなパラノイアが加わったことにより、猜疑心が極限までに加速する。特にスターリンは第一次五カ年計画とそれに次ぐ大粛清を行ったことによる死者とそれに伴う犠牲者の恨みを忘れることができず、この結果、自分は常に命を狙われていると偏執的に思い込むようになった。日常生活では毒殺を極度に恐れたため、彼が口にする飲食物は全てNKVDの管理下にある専用の農場や養魚場で採取され、専門家により入念に検査された。フルシチョフは、スターリンが「どこでも、誰に対しても、あらゆる事柄に関しても、敵・スパイ・裏切者の姿を見出した」と述べている。晩年にはベリヤ、フルシチョフなど有力な部下達の忠誠心を疑い、彼らの部屋を全員秘密警察に盗聴させている。, 権力の絶頂期の頃のスターリンは、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事を言うと、意見を言っても、曖昧な返事でも、返事を即答できなくとも、反乱を真剣に疑われ即粛清(死刑を含む)であった[要出典]。スターリンには常に2人のボディーガードがつきそい、腹心モロトフとの会見にも同席した[324]。一方で執務室に入るためのボディーチェックは存在せず、入室手続きも行われなかった[325]。デスクにはブロンズ製のカップが置かれ、太い青エンピツと赤エンピツが入っていた。重要外交書類に青エンピツで署名すると、全行政機関が即座に行動を開始した[326]。, この性向は晩年に近づくほど強まり、「自分の周りにいる人間は全て敵である」という妄想に悩まされていた。あまりの恐怖に人前に出ることはほとんどなくなり、部屋から出ることは稀になっていった(ちなみに被害妄想の典型的な症状である)。さらに、晩年には認知症も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった。軍隊が攻めてきても、2週間持つほどの重装備であったという。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にも施していた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スターリンが部屋に入ってからまずやることは、ランプを持って部屋を隅々まで検査することであった[要出典]。, スターリンの元通訳は、信じていたヒトラーに裏切られた屈辱と恐怖から、元々強かった猜疑心が病的になったのではないかと述べている[324]。, スターリンは帝政ロシア時代のイヴァン雷帝を信奉していた。エドワード・ラジンスキーによれば、スターリンはイヴァン雷帝の政策を高く評価していており[327]、またセルゲイ・エイゼンシュテインに雷帝の生涯を描かせた映画の製作を命じ、雷帝の英雄としての側面が強調された第1部を絶賛した[328] が、第2部における雷帝やオプリーチニキの描写には強い不満をいだき、イヴァン雷帝を演じた俳優ニコライ・チェルカーソフとエイゼンシュテインをクレムリンに呼びつけ、夜を徹して議論したという。一方で、スターリンはイヴァン雷帝の粛清の詰めの甘さを批判していたとされる[327][329]。, スターリンは宿敵であるヒトラーを高く評価し、親近感を抱いていたと言われている。イギリスの外務大臣(当時)アンソニー・イーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかしイーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、「ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」と発言し、西ヨーロッパへの野心がないことを表明したという。1934年、ヒトラーがエルンスト・レームを抹殺した事を知ったスターリンは「ヒトラーとは実にたいした奴だ!政敵を片付けるには一番良い方法だ」とミコヤンに語った[330]。, 1940年11月12日、モロトフとウラジーミル・デカノゾフソ連大使、通訳2人がヒトラーの執務室を訪れた際、ヒトラーはモロトフと握手をかわし「スターリン閣下は歴史的人物であり、私もそうなるでしょう。是非閣下と会談したい」と述べた[331]。帰国したモロトフが伝えると、スターリンは有頂天になったという[330]。, なお、ヒトラーもスターリンを自分に唯一匹敵する指導者として評価していた。独ソ戦中の1942年には「スターリンは我々の無条件の尊敬に値する。彼は彼なりに並々ならぬ人物であり、半ば野獣、半ば巨人である」と言明した[332]。また「ロシアをあの男にまかせるのも悪くない。もちろん我が国の管理下でだが。彼はロシア人を取り扱う方法を心得ているからな」と夕食会で述べた[287]。ベルリン陥落寸前の1945年にも、アルベルト・シュペーアの前でスターリンを賞賛していた。ヒトラーは頑固な反共主義者として知られるが、一方でボリシェヴィキの政策に影響を受け、一党独裁制、統制経済、秘密警察、強制収容所、宣伝手法をソ連を参考に創設したと言われる(ベニート・ムッソリーニのイタリアにはスターリン時代のソ連やナチスの様な大規模な収容所や秘密警察の組織は存在しなかった)。さらに、トゥハチェフスキーやエルンスト・レームのような政敵の排除のやり方を、ヒトラーとスターリンはともに参考・利用した説も存在する。, ヒトラーとスターリン、両者と握手をしたことがあるワレンチン・M.ベレズホフ(Valentin M. Berezhkov モロトフ、スターリン元通訳)によれば、2人の握手は「そっけなく、冷淡」である点でよく似ていたという[333]。ベレズホフによれば、スターリンは敗者ヒトラーに配慮し、わざとヒトラーの遺体は見つからなかったと宣伝した[334]。彼は一連のスターリンとヒトラーの交流を「残酷なロマンス」と評した。, スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する嫌悪感を薄らながらも抱いていたが、ヒトラーのような強迫観念とは異なり、帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。「額に汗して働かぬ人々」というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。指導者になってからも、党・政府の役職にラーザリ・カガノーヴィチやマクシム・リトヴィノフなどユダヤ人などを重用し、反ユダヤ主義は犯罪であるとして糾弾しており[335]、公式には自身の反ユダヤ感情に触れることを避けていたが[336]、私生活の場では、連日催されていた深夜の酒宴などにおいて、仲間たちとともにユダヤ人に対するエスニックジョークを話題にしては楽しんでいた。また、ロシアにおける反ユダヤ主義はスターリンの支配下で大幅に高まったことが指摘されている[335][337]。第二次世界大戦中には娘スヴェトラーナの最初の恋人、アレクセイ・カプレル (Aleksei Kapler) がユダヤ人であったことから、彼を逮捕してヴォログダ収容所での5年間の重労働刑を宣告している[338]。, スターリンは商業民族的なユダヤ人に定住地域を与えて農民に変えようとロシア極東にユダヤ自治州を設置したが、これは失敗した[339]。また、当初はダヴィド・ベン=グリオンが社会主義者だったことやキブツとソ連の農業集団化政策の類似点から、国連でのパレスチナ分割決議への支持や米国に次いでのイスラエル国家承認、チェコスロバキアを通じた武器援助を行うなどイスラエルに対する支援を行ったが[340]、冷戦が進行するとともにイスラエルは西側陣営につき、ソ連は反シオニズムを掲げることになり、スターリンはユダヤ人(特にシオニスト)に対する強迫観念に取り付かれるようになり、ソビエト体制の転覆を企むシオニズムの手先・破壊分子としてソ連国内のユダヤ人を危険視するようになった[335][341]。その代表例が医師団陰謀事件である。なお、スターリンは最晩年の1953年、「ユダヤ人問題の最終的解決」と称してソ連国内のユダヤ人全員をシベリアおよびカザフスタンに強制収容する計画を実行する予定であったといわれるが、スターリンの死によってこの計画は中止となり、後継者のベリヤにより逮捕されていたユダヤ人も全員釈放されたことで実現はしなかった[335][341]。, カフカースには元々極端な反ユダヤ主義はなかった。昔から多くの民族が隣り合って住んでいた地域であり、ユダヤ人もその民族の一つに過ぎなかった。グルジアに住むユダヤ人は、その多くが仕立て屋、貸金業者、靴職人などであり、いずれも裕福であったためか、靴作りの技術が優れていたためか、スターリンの父親である靴職人ヴィッサリオンは彼らを憎悪(嫉妬から)し、幼い息子に対してユダヤ人に対する憎悪を教え込んだ[342] ことも、スターリンの反ユダヤ感情の一因である。, 残虐極まりなく、悪の帝王そのもののような印象を受けるが、外部からの訪問者と話すときは常に口元に微笑を浮かべ、謙虚であり、他人を持ち上げるなどして、好感を持たれた男性であった。話相手を魅了する力があり、酒席ではその力が倍増した[343]。日本の松岡洋右外務大臣は、スターリンとモロトフの接待で泥酔し、抱えられてクレムリンを退出した[343]。1939年8月23日、独ソ不可侵条約締結後のカクテルパーティーにおいて、訪ソと同時にドイツより運搬してきた「新第三帝国首都模型」を披露したヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相はスターリンと大いに意気投合した[344]。帰国後、ヒトラーに「スターリンとモロトフは実に気持ちの良い連中です。懐かしい党友に囲まれているようでした」と報告したとされる。1941年12月、イギリス外相アンソニー・イーデンに独ソ戦勝利を断言してイーデンを安心させる一方、腹心達には「レーニンが築いたものを失った、破局だ」と弱音をはいた[313]。, レーニンの『大会への手紙』の存在を知ったとき、スターリンは書記長の辞任を表明したが、その表明は断固たるものではなかった。スターリンは、1920年代にも辞任を2度表明しており、第15回党大会のあとにはより断固たる形で辞任を表明している。トロツキーとジノヴィエフの合同反対派は敗北し、大会はこれを組織的に手続きした。この大会後の第1回中央委員会総会にて、スターリンは中央委員たちに対して「最近までこういう事情があったと思う。つまり、反対派にたいしてある程度対抗してきた多少とも峻厳な人間として、党は私を書記長のポストに置く必要があったことだ。反対派は現在、粉砕されただけでなく、党から追放された。ところが、われわれにはレーニンの指示があり、私の考えでは、これを実現しなければならないと思う。したがって私は、書記長のポストからの解任を総会に要請する。同志のみなさん、党はこれによって得するばかりで損はないと、私はみなさんに請け合う」と要請した。しかし、この頃のスターリンの権威は増大しており、党内では団結を目指して闘い、さまざまな分派たちに容赦なく反論を加える体現者となった。書記長の辞任は再び思いとどまるよう説得されたが、スターリンは慰留されることを確信していた。解任要請も、自分の立場を強化するためであった[345]。, トロツキーとの権力闘争の時、トロツキーがレーニンの遺書を公表し、遺書通りにトロツキーらがスターリンに書記長の座を降りるよう要求した際、スターリンは一切反論せずに反省の弁を述べ、書記長の座を降りることを明言している。しかし、この時スターリンは、「私はしがない事務屋ですが、あなたたちのお力になりたいのです」などと持ち上げてカーメネフたちに接触していた。既に地盤を固めていたスターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフらの反対によって、書記長の座に留まったのである。その後カーメネフらがトロツキーの権力を殺ごうと人民委員の座を降りるよう提案した時、スターリンはトロツキーを擁護し、提案に反対している(のちに解任し、追放した)。これはほかの党員に自身の寛容さを見せるためであった。しかし、政敵を超える権力を持ち始める頃からスターリンはその本性を現し始め、ほかの党員が気付いたときには、もはやどうにもできないほどの絶大な権力を握っていた。スターリンは腹に一物も二物も持ち、本性を全く相手に感じさせず、仮面を被ることに長けていた。このため、スターリンが本性を現すまで、古参党員の多くは彼のことを取るに足らない小物と考えていた。, 大抵は粗野で、傲慢で、虐待的であったスターリンであったが、主に政治家への訪問者に対しては魅力的で礼儀正しく振舞った[346][347]。, スターリンは、誰かと一対一で話し合うのは極めてまれであった。スターリンは孤独であり、心を通じ合える相手、説得すべき相手、弁明すべき相手もいなかった。スターリンは人前で演説するのを好まなかった。演説は率直で分かりやすかったが、思考の飛躍、警句、迫力に欠けていた。グルジア訛りが強く、覚えたロシア語もぎこちなく、単調であったため、表現力に乏しかった。集会、会議、デモ行進で演説した回数が、レーニンの側近の中で最も少なかったのがスターリンであった。スターリンは、指示や指令を出し、論文や記事を書き、色々な政治的出来事について新聞に評論を発表する方を好んだ。凡庸な社会政治評論家であったスターリンの結論の出し方はいつも断定的であった。スターリンの新聞論調は黒白がはっきりしており、第3の意見は認めなかった。ラテン的な明確さが、スターリンの単純明快な魅力であった[348]。, プロパガンダ用の修整写真や肖像画でのスターリンは、ロシア貴族風の大柄で威厳のある人物として描かれているが、資料や証言から、実際の風貌は大きく異なっていたとみられている。, スターリンの下で働いた通訳ベレズホフは、初めて恐るべき上司に会った瞬間、イメージとあまりにも違っていてショックを受けたという[349]。「背が低くげっそりし、天然痘の瘢痕で覆われた顔は疲れて土気色、軍隊服が貧弱な肉体を締まりなく包んでいる」と表現している(もっともモスクワ攻防戦の最中で、スターリンにとって最も厳しい時期ではあった)[349]。スターリンに会ったことがある国連大使[誰? 偉人ヨシフ・スターリンの名言集(英訳付)by心の常備薬 ヨシフ・スターリン:ソビエト連邦の政治家、軍人 フルネーム:ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン Joseph Vissarionovich Stalin 本名:ジュガシビ 有田芳生の『芳生』←この名前の読み方を知ってる?実は、ロシアの独裁者である『ヨシフ・スターリン』から取ったものなの。 私はこの読み方を『よしお』と思っていたんだけど、間違いだった様ね。 いや~、スターリンから取ったとか本当に恐怖よね。 Stalin:A Biography. 1017–1049. 偉人ヨシフ・スターリンの名言集(英訳付)by心の常備薬 ヨシフ・スターリン:ソビエト連邦の政治家、軍人 フルネーム:ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン Joseph Vissarionovich Stalin 本 … Recognition of Israel JSTOR - The American Journal of International Law, Vol. スターリン・ブハーリン著作集刊行會, 1928. 大粛清では、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデックらがユダヤ人である点には触れられなかった。トロツキーについても、『プラウダ』などの風刺画で、額に. 南宋書院, 1928. ソ同盟における社会主義の経済的諸問題 民主主義科学者協会訳編 1953. 白揚社, 1930.2. Superpower politics:change in the United States and the Soviet Union. モンゴルの胡弓の一種でモリン・トロガイ・ホーレあるいはモリン・フールと呼ばれるものの中国名。高さ 25~30cm,幅 17~27cmの斧形の胴の両面に羊皮を張る。棹の長さ約 1m。棹の頭部に馬首の装飾... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 Hartston, William. スターリン主義に抗して あるアメリカ共産党員の回想 ジョン・ゲーツ 雪山慶正,西田勲共訳. 三一書房, 1980.9. 『独裁/スターリン』(Stalin)は、HBO製作による1992年のテレビ映画である。ソ連指導者ヨシフ・スターリンを描いた伝記映画であり、ロバート・デュヴァルがスターリンを演じる。 ゴールデングローブ賞は3部門を受賞した 。 撮影はハンガリーのブダペスト、ロシアのモスクワなどで行われた 。 ヨシフ・スターリン 英語 ... この建物をもっと良くするには ヨシフ・スターリン、ポル・ポト、サダム・フセインでもなんでも 二十世紀の大いなる独裁者の肖像でもかけておけばいい それこそが この建物が我々に語りかけてくることだからだ ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. Seidov, Igor; Britton, Stuart (2014-03-19). 20世紀を代表する残虐な独裁者たちは、永遠にその名を歴史に残した。一方で、彼らの子孫たちについてはあまり知られていない。ベニート・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリン、ポル・ポトなど、悪名高き彼らにも、存命の子孫がいる。政治家になった者もいれ Lenin, Stalin, and Hitler:The Age of Social Catastrophe. 翌朝、目を覚ましたスターリンが犬は死んだのかどうかを護衛に訊ねると、護衛は「あの犬は盲導犬であり、追い払いました」と答えた。するとスターリンは「ではその犬を連れてこい」と喚き、護衛によって連れてこられた盲導犬を自らの手で射殺したという。そして直後に「今度命令に背いたら、お前もこうなるのだ」とその場に立ち合った護衛に告げたとされている。, 他に、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながら、自身の故郷のグルジアワインを愛飲するという残虐な一面を見せていたことも語られている。, 一部のボリシェヴィキ党員は、スターリンを「オフラーナの工作員」として訴えたことがある[387]。帝政支持者による迫害からの逃亡は、スターリンにとっては容易なことで、刑罰も非常に軽かったため、スターリンがオフラーナの工作員であるという噂も立った。裏切り者を探し出すという彼の取り組み(1909年)は、党内で多くの対立を引き起こした。スターリンはオフラーナの命令で故意に争いを引き起こしたとして、一部の党員が彼を訴えようともした。メンシェヴィキ党員のen:Razhden Arsenidzeは、スターリンが同志を裏切った、と述べた。, 1916年、ボリシェヴィキ党員のステパン・シャウミャンは、スターリンを「オフラーナの工作員」であるとして直接訴えた。彼の個人秘書であるオルガ・シャトゥノフスカヤによると、これらの意見はスタニスラフ・コシオール、イオナ・ヤキール、その他著名なボリシェヴィキ党員らの意見を共有させたものという[388]。噂は、流刑からの脱出の際にオフラーナのバッジを使ったことをスターリンから伝えられたDomenty Vadachkoryという人物による回顧録がソ連国内で出版されたことで補強された[389]。刑務所からの複数回の逃亡と亡命をスターリンが軽視していたことも、疑惑を増大させる原因となった[388][390][391]。スターリンがオフラーナに協力していたという確かな証拠はいまだ見つかってはおらず、メディアが出版したオフラーナによる嫌疑がかかっているスターリンに関する2、3の報告書は、捏造されたものと見られている[389]。, ロシアの作家エドワード・ラジンスキーの本『スターリン』では、情報提供者がレーニンによって選ばれ、スターリンがロマン・マリノフスキーと同様にオフラーナのために働くふりをする二重スパイであったかもしれないと示唆している[388]。別の歴史家サイモン・セバーグ・モンテフィオーリは、残存しているオフラーナの全ての記録から、スターリンは革命家であり、決してスパイではないことが分かったと述べている[18]。1967年にスターリンの伝記を書いたエドワード・エリス・スミスは、スターリンがオフラーナの捜査網から逃れられるには疑わしく、旅行を妨げられず、収入源なしで民衆を煽り立ていたとして、スターリンはオフラーナのスパイであると唱えた。その一例として、1901年4月3日に発生したトビリシのグルジア社会民主党の主要な党員のほとんどが(スターリンを除いて)逮捕された急襲事件がある。このときのスターリンは麗らかな春の陽気を味わい、「革命なぞ糞喰らえ」と真剣に考えていた[387]。, 共産党員以外の一般の国民たちも、スターリンによる犠牲者であった。大粛清の時代、早朝のまだ空が薄暗い時間帯に自宅のドアをノックする音が聞こえ、住人が何事かと出てみるとNKVD(内務人民委員部)の人間が立っていた。住人はその瞬間、何が起きたか悟った。NKVDは、家の中を片っ端からひっくり返して「証拠」を探すのである。住人は「黒いカラス」とよばれる囚人護送車に乗せられ、ルビヤンカに連行させられた。そこで、NKVDの人間から詰問され、容疑者が罪を自白するとその自白を基に調書が作られた。容疑者が容易に自白しなければ、拷問も含めた厳しい尋問が行われた。, これがいわゆる「深夜のスターリンノック」である。スターリン時代のソ連ではこれが日常茶飯事であり、一説に36〜38年の大粛清期に100万人が銃殺され、数百万人がグラーグなどの強制収容所における過酷な労働の末、死亡したと言われる。, スターリンはもともと人間不信であったことが知られていたのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな周辺人物への疑いと不信の意識が加わることにより、国民に対しても猜疑心が極限まで加速していたのである。, スターリンがいた神学校では生徒たちは厳しく教育されたが例外もあった。ベリャーエフという善良で柔和な視学官がいたが、生徒たちは彼のことを恐れず、それゆえに尊敬もしなかった。ある日、ベリャーエフは生徒たちを洞窟の史跡に連れて行った。途中に濁った広い川が流れており、生徒たちは飛び越えたが、ベリャーエフは肥っていたために飛び越えることができなかった。生徒の1人が川に入って教師に背中を差し出し、ベリャーエフはそれを踏み石代わりにしてようやく川を越えることができた。これを見たヨシフ少年は小声で「ロバかい、おまえは?おれなら神さまにも背中を差し出したりしねえよ」と言い、それがみんなに聞こえた。「スターリンは病的なまでに自尊心が強く、さんざん卑しめられた者によくあることである」とエドワード・ラジンスキーは述べている[392]。, スターリンは、帝政時代において少数民族であり一般のロシア人より格下と認識されていたグルジア人であったことや、貧困層の出という身の上から幼少期からの交流は少なかった。加えて自身の身長が低かったことなど体格に恵まれない面から、抱えるコンプレックスは相当なものでひたすら劣等感の強い人物であった。, 彼は妻子などの配偶・近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えている。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。 4, No. スターリンの肖像 ヴィクトール・セルジュ 吉田八重子訳. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - スターリンの用語解説 - [生]1879.12.21. Stalin:The Court of the Red Tsar, Knopf, 2004 (, アントニー・ビーヴァー著 川上洸訳」「ベルリン陥落 1945」白泉社 625-626頁, Сталин(スターリン)という名称は、ロシア語で「鋼鉄、鋼」を意味する名詞сталь(スターリ)に、「~の」を意味する接尾辞-ин(イン)が付いて形成された語である。したがって、この名称を文字通りに訳せば「鋼鉄の」となる。, チアトゥラでは、スターリンとメンシェヴィキ党員の両者が炭鉱労働者からの支持を争った。メンシェヴィキ党員たちの大胆な雄弁よりも、明白で簡潔な話し方をするスターリンを好んだ鉱夫たちは、後者を選んだ, レーニンの遺書は地方代表団の長にだけ読み聞かせられ、トロツキーはスターリンの解任を要求する好機を掴むことができなかった, en:Forced settlements in the Soviet Union, http://books.google.co.uk/books?id=TVOBqYG86EIC&dq=Terror+in+My+Soul:+Communist+Autobiographies+on+Trial&pg=PP1&ots=NMnl1AZWon&sig=9GSNRBpzl4MnhaGB5zWY0razesY&hl=en&sa=X&oi=book_result&resnum=1&ct=result#PPR7,M1, http://books.google.com/?id=m-voAAAAIAAJ&dq, Russian youth:Stalin good, migrants must go:poll. 資本主義安定の最新現象と國際状勢について ブハーリン共著 岡田, 鳥海共譯. By Robert Gellately. 1901年11月、スターリンは1898年創立のマルクス主義政党ロシア社会民主労働党(RSDLP)のトビリシ委員会委員に選出され[49]同月、スターリンは港湾都市のバトゥミに移動し[50]、そこでは、自身の好戦的な主張によって当地で活動するマルクス主義者らの間に不和が生じたため、一部ではスターリンを帝国政府から送り込まれた煽動者であると疑う向きも現れた[51]。ロスチャイルド家が運営するバトゥミの製油所で雇われたスターリンは、その職場で労働者のストライキを2度にわたって共謀し、実行させた[52]。ストライキを首謀したうちの数人が逮捕された後、スターリンは大規模な抗議デモを組織したが、デモ隊が監獄を襲撃したことで軍隊が参加者に発砲し、13人のデモ参加者が死亡する事態となった[53]。犠牲者たちの葬儀の当日、スターリンは再び大規模な抗議デモを組織したが[54]、1902年4月、ついに当局によって逮捕された[55]。当初、スターリンはバトゥミ監獄に収容されていたが[56]、後にクタイシ監獄に移送され[57]、1903年中頃には東シベリアへの3年間の流刑を宣告された[58]。, スターリンは1903年10月にバトゥミを離れ、11月末にシベリアのノヴァヤ・ウダ (Novaya Uda) という小さな街に到着した[59]。スターリンは2度にわたりノヴァヤ・ウダからの脱走を試みたが、最初の脱走は失敗に終わり、バラガンスク(英語版)に到達したところで凍傷のため引き返した[60]。1904年1月、スターリンは2度目の脱走を試み、今度はトビリシまで戻ることに成功した[61]。トビリシに戻った後、スターリンはフィリップ・マハラゼと共同でマルクス主義の新聞『プロレタリアティス・ブルゾラ(英語版)』の執筆を行う[62]。スターリンが流刑になっている間、ロシア社会民主労働党はレーニン派の「ボリシェヴィキ」と、ユーリー・マルトフ派の「メンシェヴィキ」という、対立する2つの派閥に分裂していた[63]。スターリンはグルジアで活動する多くのメンシェビキ党員を忌み嫌い、自らはボリシェヴィキの側についた[64]。その後、スターリンは鉱山の街チアトゥラにボリシェヴィキの拠点を確立したが[65][注釈 4]、グルジアの革命運動においてはメンシェヴィキが圧倒的な多数派であり、ボリシェヴィキは少数派の勢力であり続けた[66]。, 1905年1月22日、首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件が発生したとき、スターリンはロシア帝国領アゼルバイジャンのバクーにいた。事件に端を発する動乱はすぐにロシア帝国全土に広がり、1905年革命(ロシア第一革命)として知られる革命へとつながった[68]。1905年2月、スターリンが滞在するバクーでもアゼルバイジャン人とアルメニア人の間で衝突が起こり、最低でも2000人が死亡する民族紛争(英語版)が勃発した[69]。紛争の最中、スターリンは配下の者を武装させてボリシェヴィキの戦闘部隊を組織し、バクー市内で両民族が衝突するのを防ぐように命じ[70]、その一方で動乱に乗じて街から印刷機材の強奪を行わせた[70]。その後グルジア全域に動乱が拡大するとスターリンはさらに多くの戦闘部隊を組織したが、それはメンシェヴィキも同様だった[71]。スターリン配下の部隊は各地の警察や軍隊を武装解除させ[72]、帝国政府の兵器庫を襲撃し[73]、またコサック軍や黒百人組に対しても戦闘を仕掛け[74]、時にはメンシェヴィキ系の民兵と共闘することもあった[75]。活動資金を調達するため、スターリンの部隊は各地の商店や鉱山からみかじめ料をゆすり取っていた[76]。この年、スターリンはトビリシにて自身と同じくグルジア出身で、仕立て屋の娘だったエカテリーナ・スワニーゼ(英語版)と出会う。, 1905年11月、スターリンはグルジア・ボリシェヴィキの代表団の1人に選出され、サンクトペテルブルクで開催されるボリシェヴィキ協議会に出席することになった[68]。サンクトペテルブルクに到着したスターリンは、レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤから開催地がフィンランド大公国のタンペレに移動したことを告げられ[77]、この1905年のタンペレ協議会(英語版)において、スターリンは初めてレーニンと出会った[78]。スターリンはレーニンの人格と知性に感動したが、レーニンの言説に反駁することを恐れなかった[18]。スターリンはドゥーマが最近作った選挙に参加するというレーニンの提案に反対し、スターリンはレーニンに認められた。スターリンはこの協議で、将来の指揮官エメリアン・ヤロスラフスキー (en:Emelian Yaroslavsky) や、ソロモン・ロゾフスキー(後に外務人民委員代理を歴任)と出会った。スターリンはレーニン達との協議後、ツァーリに反抗的な地域をコサック軍が再び抑えようとしているグルジアへ戻り、トビリシにおいてスターリンとメンシェヴィキ党員は将軍のフョードル・グリーアザノフ (Fyodor Griiazanov) の暗殺を目論み、1906年3月1日に実行に移した。スターリンは金品強要、銀行強盗、資金強奪などの行為を通して、ボリシェヴィキのために金を集め続けた。1906年4月、スターリンはロシア社会民主労働党第4回大会に出席し、この大会で将来の国防人民委員および最初の元帥となるクリメント・ヴォロシーロフ、チェーカーを設立するフェリックス・ジェルジンスキー、そしてレーニンの死後に権力を共有するグリゴリー・ジノヴィエフと出会う。また同時期にボリシェヴィキの協議で、「銀行強盗禁止」が賛成多数で可決され、この決議は資金集めの手段として銀行襲撃を行っていたスターリンを動揺させた[18]。, 1906年7月、スターリンはエカテリーナ・スワニーゼ(英語版)と結婚し、グルジアのセナキで教会式を挙げた[79]。1907年3月、スワニーゼは長男のヤーコフを出産した[80]。歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、スターリンはこの年までに「グルジアの有力ボリシェヴィキ」として頭角を現していた[81]。スターリンは1907年5月から6月にかけ、ロンドンで開かれた第5回ロシア社会民主労働党大会(英語版)に出席した[82][83]。この大会では、レーニン派のボリシェヴィキのヘゲモニー強化と、ロシアでの共産主義革命のための戦略について討議した。スターリンは当地でレフ・トロツキーと初めて出会い、スターリンはすぐにトロツキーを嫌うようになり、トロツキーを「美男子だが役に立たない」と評した[18]。, 党大会の後、スターリンはトビリシに戻り大規模な強盗計画(1907年チフリス銀行強盗事件)を準備した。1907年6月26日、スターリンの一味は武装した現金輸送隊をエレヴァン広場で待ち伏せし、発砲と手製爆弾による襲撃を行った。警備側の死者はおよそ40人で、一味は25万ルーブル(今日の価格でおよそ340万ドル)を持って広場からの逃走に成功する[18]。スターリンは計画全般を指揮していたが、実行には参加していない。この銀行強盗の後、スターリンは妻子を連れてバクーに移り住んだ[84]。銀行強盗を禁止していたメンシェヴィキは憤慨し、容疑者を調査させ、事件は以後スターリンに難儀をもたらすが、党からの追放は免れた。国立銀行からの強奪を成功させたことがスターリンがレーニンからの信頼を得る契機となったと評する見方もある[85]。同年8月、スターリンはドイツのシュトゥットガルトで開催された第二インターナショナル第7回大会に参加した[86]。, 1907年11月22日、チフスに罹患していた妻エカテリーナが病死し[87]、エカテリーナの死はスターリンに深い悲しみを与えた。スターリンは友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語っている[18]。妻の死後、スターリンは息子ヤーコフをトビリシに居る彼女の親族に預け[88]、革命活動を再開したスターリンはより多くのストライキと社会運動(扇動)を組織した。ムスリムのアゼルバイジャン人と、バクーに住むイラン人 (en:Iranian peoples) の労働者を重点的に取り扱い、スターリンはイスラム社会民主党と呼ばれるムスリムのボリシェヴィキグループの設立を手伝った。さらに人的資源と兵器によるイラン立憲革命を支持し、ペルシアを訪問した際にはパルチザンを組織している。スターリンはバクーで配下のギャングを再結成し[89]、黒百人組への攻撃を再開したほか、資金を集めるために強盗、みかじめ料の要求、通貨の偽造などを行い[90]、時には身代金目当てに富豪の子供の誘拐も行った[91]。1908年初頭、スターリンはレーニンとゲオルギー・プレハーノフに会うためスイスのジェネーヴを訪れたが、当地でプレハーノフはスターリンを憤慨させた[92]。, 1908年3月、スターリンは逮捕された後、バクーのバイロフ監獄(Bailov Prison)に収監され[93]、最終的にヴォログダ州ソリヴィチェゴドスク村での2年間の流刑を宣告され、1909年2月に流刑地に到着した[94]。6月、スターリンは女装して村から逃亡し、コトラスを経由してサンクトペテルブルクまで戻った[95]。1910年3月、スターリンは再び逮捕されソリヴィチェゴドスクに送還された[96]。この流刑中スターリンはマリア・クザーコヴァという女主人と不倫し、隠し子のコンスタンティン・クザコフを儲けた[97]。1911年6月、スターリンはヴォログダの街に移動することを許可され当地で2カ月間を過ごした[98]。その後、スターリンは再びサンクトペテルブルクまで逃亡したが[99]、1911年9月には逮捕され、ヴォログダでの3年間の流刑を宣告された[100]。, スターリンが流刑中の1912年1月、プラハ協議会(英語版)にて最初のボリシェヴィキ中央委員会のメンバーが選出された[101]。しかし、党員に扮したオフラーナのスパイであるロマン・マリノフスキーの密告により、中央委員に選ばれた党員の多くがロシアへの帰還時に逮捕された。空白状態を埋めるため、レーニンとジノヴィエフはスターリンを新たな中央委員として選び[102]、スターリンは流刑地のヴォログダでこの決定を了解し、その後生涯にわたって党中央委員会のメンバーであり続けた[103]。, 1912年2月、スターリンは再度サンクトペテルブルクへ逃亡し[104]、当地で旧来のボリシェヴィキ機関紙である週刊の『ズヴェズダ(英語版)』を、日刊の『プラウダ』として刷新する任務を遂行した[105]。『プラウダ』の創刊号は1912年4月に発刊されたが[106]、スターリンがその編者であることは秘密にされていた[106]。1912年5月、再び逮捕されたスターリンはシベリアでの3年間の流刑を言い渡され[107]、7月には流刑地であるシベリアの村ナルイム(英語版)に到着し[108]、ナルイムでは同じくボリシェヴィキのヤーコフ・スヴェルドロフと相部屋になった[109]。2カ月後、2人はサンクトペテルブルクへと逃亡し[110]、スターリンは『プラウダ』の編集・執筆作業を再開した[111]。, メンシェヴィキとボリシェヴィキから各6人が選出された1912年10月の議会選挙の後、スターリンは両党派の和解を主張する記事を執筆したが、そのことでレーニンからの批判を受けた[112]。1912年後半、スターリンはレーニンに会うためオーストリア=ハンガリー帝国領のクラクフを2度訪問し[113]、最終的にはメンシェヴィキとの融和に反対するレーニンの立場に同調し[114]、その後レーニンと裕福なボリシェヴィキ支持者の夫婦とともに数週間を過ごした。また、この間に将来のソ連政府の有力な政治家となるニコライ・ブハーリンと初めて出会う。1913年1月、スターリンは首都ウィーンに移動し[115]、当地でボリシェヴィキがロシア帝国内の民族的マイノリティにいかに対処すべきかという「民族問題」についての研究を進めた[116]。スターリンは、レーニンからこの問題に関する論文を執筆するよう激励されていた[117]。, 完成した論文は『マルクス主義と民族問題(英語版)』と題され[118]、ボリシェヴィキの月刊誌Prosveshcheniye(啓蒙)の1913年3月–5月号で初めて発表され[119]、その内容はレーニンを非常に満足させた[120]。ヨシフ・ジュガジヴィリはこの論文を「K.スターリン」という筆名の下で発表した[120][注釈 5]。「スターリン (Stalin)」はロシア語で「鋼鉄」を意味する語「stal」に由来するものであり[122]、「鋼鉄の人 (Man of Steel)」とも訳される[123]。ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフの筆名「レーニン」を模倣した名である可能性も指摘されている[124]。彼はその後「スターリン」の名を生涯使い続けたが、歴史家サイモン・モンテフィオーリは、党内で名声を得るきっかけとなった論文がこの筆名の下で発表されたことがその理由であるとしている[125]。, 1913年2月、サンクトペテルブルクに戻っていたスターリンはまたも逮捕され[126]、今回は脱走が極めて困難なシベリアの奥地トゥルハンスク(英語版)州での4年間の流刑を宣告された[127]。1913年夏に流刑地のコスティノ (Kosutino) という村落に到着したが[128]、翌1914年3月には脱走を警戒した当局によって北極圏の端にある村落のクレイカ(ロシア語版)へと移送された[129]。クレイカでスターリンは原住民のツングース族やオスチャーク族と親密な関係を築き[130]、多くの時間を釣りをして過ごした[131]。一方で、同地ではリーディア・ペレプルイギナ (Lidia Pereprygina) という当時13歳(帝政ロシアの性的同意年齢を1歳下回っていた)の少女と関係を持ち[132]、彼女は1914年12月頃にスターリンの子を出産したが、この子供は生後間もなく死亡した[133]。1917年4月頃、ペレプルイギナはスターリンの2人目の子を産み、「アレクサンドル」と名付けた[134]。, スターリンが流刑地にいた間に第一次世界大戦が勃発し、ロシア帝国は戦時下に入った。1916年10月、スターリンは他の流刑中のボリシェヴィキと共にロシア帝国軍に召集され[135]、1917年2月にはクラスノヤルスクに赴いたが[136]、身体検査官によって腕の障害が認められたスターリンは兵役には不適格と判断された[137]。その後はクラスノヤルスクに近いアチンスクにて残り4カ月間の流刑に服すことを許可され[138]、首都ペトログラードで二月革命が勃発して帝政が崩壊した際もアチンスクに滞在していた。スターリンは3月に列車でペトログラードに帰還し[139]、帰還後は当地の『プラウダ』編集局をレフ・カーメネフと共同で引き継いだ[140]。さらには多大な権力を持つペトログラード・ソビエト(英語版)の執行委員会におけるボリシェヴィキの代表者に任命され[141]、4月に行われた党中央委員会選挙ではレーニン、ジノヴィエフに次ぐ3番目に高い得票数で再選されるなど[142]、スターリンは当時の党内で高い地位を確立していた[143]。, その後、スターリンはボリシェヴィキ支持者による武装デモ(七月蜂起)の計画実行に携わったが[144]、臨時政府はこのデモを鎮圧した後にボリシェヴィキへの弾圧を開始し、『プラウダ』の事務所を急襲した[145]。 襲撃の最中、スターリンはレーニンを事務所から逃し、その後はペトログラード市内の複数の隠れ家を転々とさせてその安全を確保し、最終的にはラズリーフ(英語版)に脱出させた[146]。レーニン不在の間、スターリンは『プラウダ』の編集を続ける一方でレーニンの代理としてボリシェヴィキを指導する役割を果たし、密かに開催された第6回党大会も監督した[147]。この第6回大会で、スターリンは編集長および憲法制定議会議員に選ばれ、中央委員に再選された[18]。やがてレーニンがボリシェヴィキがクーデターを起こして臨時政府を転覆し、武力によって権力を奪取することを主張し始めると、スターリンとレフ・トロツキーはレーニンの行動計画を支持したが、カーメネフら一部の党員は反対した[148]。その後レーニンがペトログラードに帰還し、 10月10日に行われた党中央委員会の投票でクーデターの決行が過半数の支持を得て採択された[149]。反対票を投じたのは、カーメネフとジノヴィエフの2人のみだった[18]。, 1917年10月24日、警察が『プラウダ』の事務所を襲撃し、印刷機材を破壊した。スターリンは破壊された機材の一部を修復して編集業務を再開した[150]。10月25日の早朝、スターリンはボリシェヴィキによるクーデター(十月革命)の司令部であったスモーリヌイ学院(英語版)に向かい、レーニンと共に党中央委員会の会合に出席した[151]。その後ボリシェヴィキの軍勢がペトログラード市内の発電所、郵便局、国営銀行、電話交換局、数カ所の橋を占拠し[152]、ボリシェヴィキ支配下の巡洋艦「アヴローラ」が冬宮殿を砲撃すると、宮殿内の臨時政府議員は降伏し、ボリシェヴィキによって逮捕された[153]。クーデター中、スターリンに課せられた任務は第二回全ロシアソビエト大会に出席中のボリシェヴィキ代表団に事態の状況説明を行うことであり、その役割は表立ったものではなかった[154]。それを根拠として、トロツキーら敵対するボリシェヴィキは十月革命におけるスターリンの役割は些細なものであったとのちに主張したが、その見解は複数の歴史学者によって否定されている[155]。1918年3月、メンシェヴィキの指導者ユーリー・マルトフは、ボリシェヴィキが革命前に犯罪を犯したということを暴露した記事を発表し、それには、スターリンが銀行強盗を組織し、そのために党から追放されたという記事(後半は虚偽)が記載されていた。スターリンはマルトフを名誉毀損で告訴し、勝訴した。, 1917年10月26日、レーニンは新ロシア政府として組織された「人民委員会議(ソヴナルコム)」の議長への就任を宣言した[156]。スターリンは民族問題人民委員に任命された[157]。新しい任務に専念できるようにと、スターリンは『プラウダ』の編集者としての地位を解任された[102]。新政府においてスターリンは、レーニン、トロツキー、スヴェルドロフと共に非公式な「4人組」として首脳部を形成した[158]。ボリシェヴィキの本部が置かれたスモーリヌイ学院では、スターリンの執務室はレーニンの執務室の近くに設けられており[159]、約束なしでレーニンの書斎を訪れることが許されていたのはスターリンとトロツキーの2人だけだった[160]。当時のスターリンはレーニンやトロツキーのように一般的に有名ではなかったものの[161]、ボリシェヴィキの世界では重要人物に成長していた[162]。スターリンはレーニンによる警察機関「チェーカー」の設立を強力に支持し、チェーカーによって始められた赤色テロも擁護した[163]。カーメネフやブハーリンとは異なり、スターリンがチェーカーおよびテロの急激な成長と拡大について懸念を示すことはなかった[163]。, ボリシェヴィキが権力を掌握した後、右派・左派を問わずその支配に抵抗する勢力が蜂起し、ロシア内戦が勃発した[164]。内戦により減少を続ける食糧の供給を確保するため、人民委員会議は1918年5月、スターリンをロシア南部における食糧徴発の責任者としてツァリーツィンに派遣した[165]。軍司令官としての価値を示すため[166]、スターリンはツァリーツィンに到着するとすぐに現地の軍の指揮権を自らに移行させた[167]。ツァリーツィンで、スターリンは将来的に自らの軍事的・政治的支持基盤の中核となる、クリメント・ヴォロシーロフとセミョーン・ブジョーンヌイの2人との親交を深めた[168]。数的優位によって勝利を得るため、スターリンは大量の赤軍兵士を動員して反ボリシェヴィキの白軍を攻撃したが、この戦略は赤軍側に多大な犠牲を強いることとなり、レーニンにも懸念を抱かせた[169]。, 白軍との戦闘の一方で、スターリンはツァリーツィンのチェーカーに命令を出して反革命分子の嫌疑がある者を逮捕し、時には裁判なしで処刑した[170]。また、軍事・食糧収集に従事する中産階級の「専門家」を(政府からの命令に反して)粛清し、その一部を同様に処刑した[171]。スターリンによる国家的暴力とテロの使用は、ほとんどのボリシェヴィキ首脳が許容する範囲を超えていた[172]。例として、農民が食糧徴発の実施に従うことを確実にするため、スターリンはいくつかの農村を燃やすように命じた[173]。, 1919年の初期にモスクワへ戻ったスターリンは、長年の伴侶となるナジェージダ・アリルーエワと3月24日に結婚した。同じく3月の第8回党大会で、レーニンは過度の犠牲者を出すに至った戦術を用いたとして、スターリンを批判した[102]。1919年5月、スターリンはペトログラード近くの西部戦線に派遣された。赤軍兵士の大規模な逃走と離反を止めるため、スターリンは脱走兵と反逆者を集めると、彼らを公然と「裏切り者」として処刑した[102]。, ボリシェヴィキは1919年末までにロシア内戦での勝利を確定させた[174]。それに伴い、人民委員会議はその関心を国外へのプロレタリア革命の拡大に向け、この目的達成のため、1919年3月には「コミンテルン」を結成していた(コミンテルンの創立式典にはスターリンも出席した)[175]。スターリンは、欧州中のプロレタリアートが革命の寸前にあるというレーニンの考えには同意していなかったものの、単独で存在する限り、ソビエト・ロシアは無防備なままであるとは認識していた[176]。1920年2月、スターリンは労農監査人民委員部(英語版)の部長に任命された[177]。同月にはまた、カフカース戦線に異動となった[178]。, 1920年、ポーランド・ソビエト戦争が激化し、ポーランド軍はウクライナに侵攻して5月7日にキエフを占領した[179]。5月26日には、スターリンもウクライナの南西戦線に派遣された[180]。赤軍は6月10日にキエフを奪還し、速やかにポーランド軍をウクライナから駆逐してポーランドに押し返した[181]。1920年7月16日、ボリシェヴィキはこのまま戦争を継続し、ポーランド領内に侵攻することを決定した[182]。レーニンは、赤軍の侵攻によってポーランド国内のプロレタリアートが立ち上がり、赤軍と共同でユゼフ・ピウスツキの政権に反抗すると信じていた[182]。一方、スターリンはポーランドの労働者階級はナショナリズムから自国の政権を支持すると予想しており、レーニンの考えに対し警告を発した[182]。スターリンはまた、赤軍はポーランドに侵攻するには準備不足の状態であり、侵攻を強行した場合クリミアの白軍に再起のチャンスを与え、内戦が再燃する事態になりかねないと考えていた[182]。最終的にスターリンは議論に負け、レーニンの決定を受け入れた[178]。, その後、ミハイル・トゥハチェフスキーが率いる赤軍がポーランドの首都ワルシャワに向けて進撃する一方で、スターリンは南西戦線でリヴィウの攻略を指揮した。8月初旬、スターリンは配下の部隊を移動してトゥハチェフスキーのワルシャワ攻略を支援するよう再三にわたり命令されたが、リヴィウ攻略を優先するため、命令の実行を拒否した[183]。8月中旬、ポーランド軍は反攻に転じて赤軍を撃退し(ヴィスワ川の奇跡)、スターリンは政治局会議に参加するためモスクワに帰還した[184]。モスクワに戻った後レーニンとトロツキーから戦争指導について批判され、自尊心を傷つけられたスターリンは、8月17日に自らを軍事的役職から解任することを要求し、9月1日に受理された[185]。, 1920年9月22日から開かれた第9回共産党協議会で、トロツキーはスターリンがポーランドとの戦争で「戦略的ミス」を犯したとの告発を行った[186]。トロツキーは、部隊の移動命令を拒否することでスターリンは戦争をサボタージュしたと主張し、レーニンもそれに同調したほか、大会期間中、スターリンの行動を擁護する者は皆無だった[187]。スターリンは屈辱を与えられたと考え、トロツキーへの敵愾心を強めた[188]。ポーランド・ソビエト戦争は、1921年3月18日、ボリシェヴィキがポーランドと講和条約(リガ平和条約)を結んだことにより正式に終戦を迎えた[189]。, 1921年2月、近隣諸国に支配を拡大することを望んだソビエト政府は、メンシェヴィキの支配地域であるグルジア民主共和国に侵攻した[190]。同年4月、スターリンはトルキスタンに赤軍を派遣し、ロシアによる同地域の支配を再確認させた[191]。民族問題人民委員として、スターリンは各々の国民と民族集団が自己表現の権利を有するべきであると考えており[192]、そのためにはロシア国家内に地域的問題の管轄を許可された「自治共和国」を設けることが助けになると信じていた[193]。スターリンの生まれ故郷であるカフカースは、多民族が混在する事情から特有の問題をはらんでいた[194]。スターリンは、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンに各々の3つの自治共和国を設けるという構想に反対しており(それぞれの自治共和国内の民族的マイノリティが虐げられる可能性が高いと考えていた)、代わりに「ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国」という連邦国家の樹立を要求した[195]。しかし、グルジア共産党は連邦国家の構想に反抗し、「グルジア問題」が引き起こされた[196]。, 1921年の半ば、スターリンは南カフカースを訪問し、グルジア内の民族的マイノリティ(アブハジア人、オセチア人、アジャリア人)を排除するような排外的グルジア愛国主義を避けるよう、グルジア共産党員に要求した[197]。この訪問の際、スターリンは長男ヤーコフに会い、彼をモスクワに連れて帰った[198]。それに先立つ1921年3月には、妻ナジェージダがスターリンにとっての次男ワシーリーを出産していた[198]。, 内戦の終結後、ロシア全土で政府による食糧徴収への反発を主な動機とする労働者のストライキや農民の一揆が勃発し、その対策としてレーニンは市場経済を容認した改革である「新経済政策(ネップ)」を施行した[199]。この当時、共産党内部でも内紛が生じ、労働組合の廃止を求めるトロツキーの党派にレーニンが反対したことを受け、スターリンが反トロツキーの党派を組織した[200]。1922年の第11回党大会において、レーニンはスターリンを党書記長に任命した。この任命にあたり、すでに他の役職に就いているスターリンの作業負荷を過度に増加させ、また権力を必要以上に拡大させるとの懸念が示されたが、それでも彼が書記長に指名された[201]。歴史学者ロバート・サーヴィスによれば、主な同盟者の1人であるスターリンを重要な地位に就けることは、レーニンにとって好都合であった[202]。, 1922年5月、レーニンは脳卒中の発作を起こし、半身不随となった[203]。その後レーニンはゴールキの別荘(ダーチャ)で静養生活に入り、人民委員会議とのつながりは頻繁に面会に訪れるスターリンを通してのものとなった[204]。スターリンは、レーニンから2度にわたって自殺用の毒薬を入手するよう要求されたが、その願いを聞き入れることはなかった[205]。この時期のレーニンは、スターリンの態度を「アジア的」であるとして嫌悪しており、妹のマリヤ・イリイチナ・ウリヤノヴァ(英語版)に対しては、スターリンが「知的ではない」と漏らしていた[206]。さらに、レーニンとスターリンは対外貿易の問題をめぐって意見を対立させたほか[207]、グルジア問題をめぐっても、レーニンはグルジア単体での共和国を望むグルジア共産党中央委員会を支持しており、スターリンが推進する南カフカースの連邦国家に反対した[208]。, 両者の意見の不一致は国家の形態にも及んだ。レーニンは、「Union of Soviet Republics of Europe and Asia(直訳:欧亜ソビエト共和国同盟)」という名の連邦国家の創設を要求し、ロシア国家は他のソビエト共和国と同列・同条件でこの新連邦に加盟するべきであると主張した[209]。スターリンは、レーニンの案では非ロシア人の独立感情が促進されると考え、非ロシア民族はロシア・ソビエト共和国内部に彼らの「自治共和国」を設けることで満足させられると主張した[210]。レーニンがスターリンを「大ロシア排外主義」として批判した一方で、スターリンはレーニンを「民族自由主義」として批判した[211]。両者の妥協の結果として、新連邦国家は「ソビエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics)」と命名されることなった[209]。1922年12月、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立が正式に承認された[212]。, 同じ1922年12月には、レーニンの政治活動への参加をめぐり、スターリンが電話でレーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを「ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)と仕事の話はするな、さもないと党統制委員会に引っ張り出すぞ」と激しく叱責するという事件が起きた[213]。レーニンはこのことでスターリンに激怒し、翌1923年3月5日に「私は自分へなされた仕打ちを忘れるつもりはない…発言を取り消すなり謝罪する用意があるか、それとも我々の関係を断ち切るかよく考えよ」と詰問する手紙を送った。それに対しスターリンは、クルプスカヤへの発言の真意はあくまでも医師たちの指示を守ってもらうためであって乱暴だとは思っていなかったと釈明し、「あなたが我々の『関係』を保持するために私の発言を撤回せよと言われるなら、そういたします。しかし、問題は何なのか、私の落ち度がどこにあるのか、人々が私に何を欲しているのかは推量したくありません」という『ずいぶん礼節を欠いた』[214] 返事をしたためた。, 1923年3月6日、スターリンの返信を受け取る前に、レーニンは3度目の脳卒中発作を起こして廃人同然の状態となり、大きく回復することのないまま翌年の1月21日に死去した。1924年5月22日の第13回党大会にて、クルプスカヤの希望によりレーニンの遺書(英語版、ロシア語版)が公開された[注釈 6]。遺書の内容は、「スターリンはあまりに粗暴過ぎる。この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちやその交際の中では我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢ならないものとなる」「背信的なスターリンを指導者にしてはならない」というものであった。レーニンはスターリンを書記長の地位から外し、「より忍耐強く、より丁重で、より思いやりがあり、あまり気まぐれではない人物」を、そのポストに任命するよう提案していた[215]。, スターリンは党書記長としての人事権を利用し、自らに忠実な部下を党と政府の要職に配置したほか[216]、大学教育を受けた者が多い古参党員よりも労働者・農民出身の新規党員を重用することで[217]、自らの支持者が国家全域に偏在することを確実にした[218]。同時に、秘密警察(チェーカー及び後身の国家政治保安部)の重鎮であるフェリックス・ジェルジンスキー、ゲンリフ・ヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーの3人と親交を深めた[219]。, 1924年1月にレーニンが死去すると[220]、スターリンは葬儀の取り仕切りを任され、葬儀当日にはレーニンの棺を担いだ[221]。未亡人となったクルプスカヤの意向に反し、共産党政治局はレーニンの遺体に防腐処理を施した上で、モスクワ・赤の広場内の霊廟に設置した[221]。霊廟は死後増大したレーニンに対する個人崇拝の一部であり、同年にはペトログラードがレーニンを称え「レニングラード」と改名された[222]。レーニン亡き後の後継者候補にはスターリンの他、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、トムスキーなどが浮上したが[223]、スターリンが権力独占への主な障害とみなしたのはトロツキーであり[224]、レーニンの存命時からジノヴィエフ、カーメネフと組んで反トロツキーの同盟を結成していた[225]。, 1924年5月の第13回党大会(英語版、ロシア語版)において、「レーニンの遺書」が地方代表団の団長に対してのみ読み上げられた[226]。スターリンは(自分を批判する)遺書の内容を恥じ、党書記長を辞任すると自ら申し出た[227]。この遜った行動により、スターリンは解任の危機を脱し、書記長に留任することを許された[227]。ジノヴィエフは増加するスターリンの権力に懸念を抱いていたが、第13回党大会では「左翼反対派(英語版)」を率いるトロツキーに対抗するため、スターリンの味方に付いた[228]。, トロツキーの左翼反対派はネップ(新経済政策)が資本主義への行き過ぎた譲歩であると考えており、ネップ支持派のスターリンを「右翼」とみなした[229]。スターリンは党中央委員会を自らの支持者で固める一方で[230]、左翼反対派の党員を徐々に要職から排除していった[231]、これらの動きは(スターリンと同じく)左翼反対派の提案がソビエト連邦を不安定にすると考えていたニコライ・ブハーリンによって支持されていた[232]。ブハーリンは第13回党大会で共産党政治局に昇進し、スターリンと同盟関係を結んだ。, スターリンは1924年終盤からカーメネフとジノヴィエフへの攻撃を開始し、彼ら2人の支持者を重要な地位から外していった[233]。1925年に入ると2人はスターリンとブハーリンに対して公然と敵対するようになり[234]、同年12月の第14回党大会では政治局の多数派であるスターリンの党派に攻撃を仕掛けたが、その試みは失敗に終わった[235]。スターリンは逆に、カーメネフとジノヴィエフによる分派主義的な行動が党の安定性を危険に晒していると批判した[235]。1926年の半ば、カーメネフとジノヴィエフはトロツキー支持派と組んで「合同反対派(英語版)」を結成し、スターリンに対抗した[236]。この時期、スターリンは革命を世界に広げることよりもボリシェヴィキがすでに支配した国での共産主義の構築に集中すべきだと主張し始めた。これは党内の多くの同志たちや、スターリンのイデオロギーに反対していたトロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフをも引き込んだ。, スターリンは自身の政敵の評判を徐々に下げていった。トロツキーは革命前からボリシェヴィキにはいなかったことや、カーメネフとジノヴィエフが革命に反対票を投じていたことを指摘した。トロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフは党内でますます孤立を深め、1927年11月には共産党中央委員会から追放された。11月14日、トロツキーとジノヴィエフは党からも追放され、続いて12月にはカーメネフも追放されるに至った[102]。カーメネフとジノヴィエフは謝罪の公開書簡を書き、約6カ月後に復党となったが、トロツキーはソ連からも追放された。, スターリンは、より迅速な工業化と、レーニンによる新経済政策(ネップ)を嫌った多くの党員に共感を呼んだ経済の集中管理の促進を始めた。1927年末の穀物供給の危機的な不足は、スターリンに農業集団化の推進を促進させた。1928年1月、スターリンは、富農が秘蔵していた穀物の没収を監督したシベリアへ、個人的な旅に出掛けた。党員の多くは没収を支持したが、ブハーリンと首相のアレクセイ・ルイコフは憤慨した[102][237]。ブハーリンは、富農の財産の融資による迅速な工業化というスターリンの計画を批判し、ネップへの復帰を提唱した。スターリンはブハーリンを派閥主義的で資本主義的傾向であるとして非難し、その他の中央政治局の委員たちはスターリンに味方した。1929年11月、ブハーリンは政治局から追放された。, スターリンは、「貧民階級の味方」という聴衆への訴えによって人気を得た。スターリンは従来のボリシェヴィキの理論である「世界革命」路線を放棄して、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱した。ロシア人は世界大戦と内戦で疲れており、「一国社会主義構築への専念」は、戦争に対する楽観的な解毒役となった。自身の反対勢力ができあがるため、スターリンは党内の一派が党の指導者の方針に公然と反対することができない派閥主義の禁止を大きく利用した。1928年(五カ年計画の最初の年)まで、スターリンの指導者の地位は最上位にあった。この翌年、世界革命・永続革命を提唱していたトロツキーはスターリンに反対していたために追放された。ブハーリンによる党内右派のような反対勢力の裏をかき、コルホーズと工業化を主張・推進したスターリンは、党と国の両方を統制した。しかしながら、セルゲイ・キーロフのようなほかの指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年の間に行った「大粛清」まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。, スターリン政権は強制的に集団農場に移行した。大規模に機械化された農場から農業による生産高を増やし、農民たちをより政治的支配下に置き、より効率的に徴税するためであった。集産化は、1861年の農奴制の廃止以来見られなかった、土地と農産物の制御からの疎外という急激な社会的変革を起こした。農業集団化の最初の年には、工業生産高が200%、農業生産高は50%増加するだろうと見積もられていた[238] が、達成されることはなかった。, ソ連時代のロシアは、アメリカから毎年大量の穀物を輸入していた。ロシア革命後のソ連は、「社会主義の優越性」(社会主義が何如に優れているか)を具現化させるため、工業化を重視した経済政策を推進するようになる。工業を重視したがために農作物の値段は安値に抑えられ、農民たちは農産物の出し惜しみに出た。スターリンはこれの打開のため、個々の農家がそれぞれの農業をさせるのを止めさせ、農民全員を集団農場に集めて労働させ、収穫できた農作物を国に納めさせることにした。集団農場が各地に作られ、個人で持っていた農家の土地は没収されて集団農場のものとなった。集産化は、数多くの農民たちの生活水準を急激に低下させたことで、農民たちは農産物を自分たちが生きられる最低限の生産高しか作らなくなった。個人の農家が持っていた家畜までもが取り上げられたため、それならば自分で家畜を殺してしまえ、という農家が続出、ついにはソ連全土で家畜を殺して食べる催しが行われた。さらにはコルホーズの役人が殺害されるなど、農民たちは激しく抵抗した。, スターリンは、農業集団化に反対したこの予期せぬ失敗者を「クラーク(富農)」と主張し、「農業がうまくいかないのは、農村に残った資本家である。すなわち富農が原因であり、富農を撲滅すべきである」と党大会で糾弾した(しかしながら、実際に「富農」と認定された農民は全農業人口のうちのわずか4%であった)。スターリンが対象としたのは、「ネップの時代に利益を手にした農民」であり、ゲーペーウーとコムソモールによる暴力の矢面に立たされ、それらは人口の60%であった。スターリンは農民たちを無理やり分けた。「貧農」と見なされた者は集団農場の労働者にされて働かされ、「富農」「富農の助力者」、そしてのちに「元富農」と公式に定義された人々は、銃殺されるか、グラグに収容されるか、国から遠く離れた辺鄙な地域へ国外追放となった。この「富農撲滅」政策によって、富農の追放 (en:Dekulakization) が起こった年である1930年の間に20,201人の人々が処刑されたことを記録データが示している[239]。農業集団化の第2段階 - スターリンによる高名な論説「Dizzy with success」[240]、「集団農場の同志たちに答える」[241] によって1年間中断となった - は、戦術的・政治的撤退という彼の手腕の最たる例に続いて、初期の戦略の強化が施された。, 「富農」に分類された農民は、勤勉な農家であるケースが多かった。家を挙げて農業に取り組んだために、相対的に豊かな生活を送っていたが、スターリンの農業集団化政策によって彼らが弾圧されたことで農業に熱心に取り組む人間がいなくなるという皮肉な事態となった。集団農場における労働者は、政府により決められた穀物しか作れず、その生産した穀物も不当に低い価格でしか買い取って貰えなかった。このため、農民の労働意欲は低下しソ連の農産物の収穫高は大きく下がり、ソ連は豊富な穀倉地帯を所有しているにも関わらず食糧不足に陥った。「ロシアの穀倉地帯」と呼ばれたウクライナで飢饉が発生(後述)し、農民たちが次々と餓死していった。, セルゲイ・キーロフは政治局員であり、党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする[242]。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏に接近していた。1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった[243]。この一件は、スターリンのキーロフに対する反感をますます強めたものと思われる。, 1934年12月1日、キーロフはレニングラードにおいてレオニード・ニコラエフ (en:Leonid Nikolaev) という青年によって暗殺された。ニコラエフは当時のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダと関係があり、スターリンがヤゴーダを通じてニコラエフをそそのかしキーロフを暗殺させたとする説は根強い[244]。キーロフの死はボリシェヴィキをぞっとさせたが、スターリンは暗殺の知らせを聞くと、レニングラードに向かい暗殺事件の真相を究明するため、異例の現地指揮を行った。, キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探し出すことで安全対策を強化するというものであった。しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのだった。スターリンは自身の生立ちから人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、異常なまでの権力欲と顕示欲の塊であり、その目的を達するためなら手段を全く選ばなかったのである。この過程は、それから広範に亘る追放へと変移していった。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる大粛清の前兆であった。, キーロフが暗殺されると、スターリンは、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者たちを、陰謀に巻き込むための構想を抱いた[245]。調査と裁判は拡大していった[246]。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった[242]。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺のあとに法律を改定する[242]。この党大会で選出された党中央委員会の委員および中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。党大会の党員1,956人のうちの1,108人が、「人民の敵」(ロシア語враг народа, "vrag narodaヴラグ ナロ-ダ")(en:Enemy of the people) という烙印を貼られ、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに処刑された。スターリンは、裁判所に対して「人民の敵」と判断した者には死刑判決を下すこと、そして直ちに死刑を執行するよう命令していた。取り調べの際には「肉体的圧迫」、すなわち拷問を用いることを認め、罪を認めない者には拷問によって力ずくで「罪」を認めさせた。, スターリンは、起訴や弁護人による訴えなしによるわずか10日間の調査で刑を迅速に執行できるようにする『テロ組織とテロ行為』という新しい法案を可決した[247]。その後、モスクワ裁判として知られる複数の裁判が開かれたが、その手続きはソ連全土に亘って模倣された。反革命活動の禁止を記載した法律の第58条は、幅広くあらゆる態度・物腰に適用された[248]。根拠薄弱な口実として火事が起きただけで「破壊活動」と見なされ逮捕されるケースが存在した。もっとも、多くの場合は誰かに「人民の敵」(「人民のための党を裏切るのは、人民の敵である」)の烙印を押し付けるだけで十分であった。そして国民の迫害・虐待が始まり、死とまではいかなくとも、しばしば尋問、拷問、そして国外追放にまで及んだ。ロシア語のトロイカには、NKVDの下に置かれる3つの委員会によって裁判はすぐに単純化され、刑は24時間以内に執行される、という新たな意味が加わった[247]。, 共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力をほぼ絶対的なものまでに強化し、政治的反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員たちを策略によって逮捕・追放した。スターリンは大粛清を、日和見主義者と反革命分子を追放する試みとして正当化した[249][250]。党による粛清の標的とされた者たちはNKVDトロイカによる公開裁判後に矯正労働キャンプ(グラグ)への収容あるいは処刑という、より厳しい措置が取られた[249][251][252]。, 軍事指導者たちの多くは反逆罪の判決を受け、赤軍の陸軍将校の大粛清に繋がっていく[253]。あまりにも多くの、かつて高い地位にいた革命家たちや党員への粛清はレオン・トロツキーをして「スターリン政権とレーニン政権とは『血の川』によって隔てられてしまった」と言わしめた[254]。トロツキーは「スターリンは反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加える」との言葉も遺している[255]。, 1937年よりメキシコで亡命生活を送っていたトロツキーは、1940年8月、同地で登山家のスペイン人であったラモン・メルカデルにより暗殺された。メルカデルはトロツキー暗殺のために派遣された刺客と考えられている。これにより、かつての党指導者間の政敵の最後の生き残りを、スターリンは抹殺する形となった[256]。オールド・ボリシェヴィキは、スターリン、カリーニン、そしてモロトフの3人のみとなった。NKVDによる大規模な作戦 (en:Mass operations of the NKVD) は、ポーランド人、ドイツ民族、朝鮮人といった海外の様々な民族を標的とした。計350,000人(その内の144,000人がポーランド人)が逮捕され、247,157人が処刑された[237]。粛清と並行して、ソビエトの教科書とほかの宣伝材料の歴史を書き直させた。NKVDによって処刑された著名人は、初めから存在しなかったかのように教科書や写真から跡形もなく取り除かれた。革命の歴史は、徐々にレーニンとスターリンという主要の2人についての話のみに変わっていった。, 公開されたソビエトの公文書と公式のデータによれば1937年には353,074人、1938年には328,612人(歴史家はほぼ700,000人と見積もっている)[257] もの「普通の」ソビエト国民…労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金受給者、バレリーナ、乞食が処刑された[258][259]。一部の専門家は、公開されたソビエトの公文書は、数字が控えめか、不完全か、頼りにならないと考えている[260][261][262][263]。例えば、ロバート・コンクエストは大粛清で処刑された人数は681,692人ではなく、その約2.5倍であったと示している。彼は、名誉回復された犠牲者の死因と死んだ日付をKGBが偽造し、証拠隠滅したと考えている[264]。伝えられるところによれば、当時、銃殺された人々のリストを見直していたスターリンは、とくに誰かに呟くこともしなかったという[265]。, スターリンは、NKVDの諜報部隊をモンゴル人民共和国に派遣してモンゴル人によるNKVDトロイカを設立し、数万人が「日本のスパイ」として処刑されたスターリン主義者によるモンゴルの弾圧 (en:Stalinist repressions in Mongolia) を誘発させた。モンゴルの統治者ホルローギーン・チョイバルサンは、スターリンの指導に密接に従った[239]。, ただし、37年と翌38年に集中的に発生した大粛清(銃殺刑はロシア連邦国立公文書館 (GARF) による資料によれば37年と翌年の合計が約78万人、対して前年の36年は1,118人)の原因、政治的な計画性、ならびにその過程におけるスターリンの関与の程度に関しては上述の説明とは異なる異論もある。ソ連崩壊後に公開された公的資料に基づく研究によれば、ノーメンクラトゥーラならびにモスクワが当時強引に進めていた農業集団化などの国家統制政策とそのもたらした混乱が一方にあり、他方でボリシェヴィキの伝統的な主意主義(「鉄の規律を誇る党」)的体質という「二つのモデルの混在」とそれに起因する矛盾が、社会全体を巻き込んだ政治的なヒステリー現象たる大粛清の社会構造的な原因であるとされている[266]。, 主な犠牲者としては、かつてスターリンと共にトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、グリゴリー・ソコリニコフ、チュバール、ゲオルギー・ピャタコフ、ニコライ・ブハーリン、ボロージン、アレクセイ・ルイコフ、カール・ラデック、ミハイル・トゥハチェフスキー、スタニスラフ・コシオール、レフ・カラハン、イオナ・ヤキール、などである。アドリフ・ヨッフェ、ミハイル・トムスキーは自殺した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのはわずか15人であった。トゥハチェフスキーを初めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に銃殺されたとされる。, 俳優で演出家のフセヴォロド・メイエルホリド、作家のマクシム・ゴーリキー、生物学者のニコライ・ヴァヴィロフのような、文化人や学者も犠牲となった。外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党のクン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、演出家の杉本良吉、ドイツ共産党員でソ連に移住していた元東京帝大医学部助教授の国崎定洞が行方不明となった(いずれも逮捕・処刑されたことがのちに判明する)。, また、後述のようにこの記事に掲載されているスターリン、レーニン、カリーニンの3人が写っている写真は集合写真からの切り抜きであるが、実際の写真は1919年に行われた党中央委員選出の際に撮られたものであり、素性が分からない人物1人(後列に立っているため顔が見えない)を含めて21人が写っている写真であった。この中で氏名が判明している20名(スターリンら3人を数えなければ17名)の内11名がスターリンに粛清され、他にも3名(上記のヨッフェとトムスキーの他にミハイル・ラシェヴィチ)がスターリンに抗議して自殺している[267]。, 粛清の実行者である秘密警察職員ですら例外ではなく、ゲンリフ・ヤゴーダからニコライ・エジョフ、ラヴレンチー・ベリヤへと長官が変わるなかでNKVD職員たちも何万人と粛清された。例えばエジョフの場合、NKVDを掌握した時点で前任者であるヤゴーダやメンジンスキーの息がかかった職員を大勢粛清して組織内での自分の立場を強化している。ほどなくヤゴーダ自身も粛清されることとなるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにベリヤに取って代わられ、粛清されている[268]。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清しているが、ベリヤ自身もスターリン死後の権力闘争で敗れて粛清されている。当然のように、この時もNKVD内の親ベリヤ派と目されていた側近達が新体制によってベリヤと共に粛清されている。, 粛清される側になったNKVDの元トップらは、当然自分たちが今まで粛清してきた人々と同じ運命を辿ることになった。後述のように、今まで描かれていた絵画や写っていた写真から削除されたのである。ヤゴーダの場合、自分が建設した運河をスターリン、キーロフ、それにヴォローシロフらと船に乗って歓談している絵があったが、粛清後は削除され、代わりにヤゴーダのいた場所には手すりに掛けられたコートが追加された[269]。ベリヤの場合、粛清後はそれまでソビエト大百科事典に載っていたベリヤの項目が完全に削除され、すでに第2版を購入していた人々の下には「ベーリング海の新たな情報」なる4ページの記事が送付された。, 「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から63年に行った秘密調査における数字、ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。, 1936年、スターリンは新憲法、いわゆる「スターリン憲法」を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「ソ連邦における労働」とは、すなわち「“働かざる者、食うべからず”」の原則の下、働きうるすべてのソヴィエト市民の誇りある義務であり、また努めである」とさせた[270]。そして、「労働者の利益に従って」という条件の下、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国家としては世界初だった。, だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られたものであり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。もっとも当時それ自体は珍しいことではないが、ソ連の場合、最初の選挙で議員の一人に19歳の少女が選ばれるなどエンターテイメント的な宣伝が行われ、有権者の千人に一人は候補者名を塗り潰し反ソ・反選挙的態度を見せるなどの国内の反感も受けていた(封筒に入れない、別の候補者名を書くなどの無効票を加えればもう少し増える)。, なお、スターリン憲法はスターリンの死後に一部が改正され、1977年にレオニード・ブレジネフによって新しい憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。のちにミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって、1988年12月および1990年3月に改正された。後者の改正では大統領制・複数政党制が導入され、一党独裁制は放棄された。最終的に、1991年のソ連崩壊により、憲法は失効するに至った。, スターリンは、秘密警察と情報機関の適用範囲と権力を大きく増大させた。彼の指導の下、ソ連の諜報部隊は、ドイツ(赤いオーケストラ)、イギリス、フランス、日本、そしてアメリカを含む世界の主要な国の大部分に諜報の網を構築し始めた。スターリンは、偵察、共産主義の政治的プロパガンダ、そして国が許可した暴力との違いが分からなかった。スターリンはこれらをNKVDによる仕事として統合し始めた。海外の共産党のソ連支持、スターリン支持の状態にするために諜報員を潜入させるコミンテルンの活用は大きな成果を上げた。秘密警察と海外での諜報活動を統合させたスターリンの手腕の最たる例の一つは、メキシコに亡命したトロツキーの暗殺の許可を秘密警察に与えたことである[271]。, 1939年9月のポーランド侵攻後、分割占領線となるカーゾン線東部のポーランド人数十万人を中央アジアなどの辺境地へと強制移住させた。

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